戦前の歴史を20超の経済指標で分析する

戦前の歴史を20超の経済指標で分析する

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 西洋で戦争が起きる理由は宗教や覇権主義など多様ですが、戦前の日本が戦争を決断した理由は間違いなく経済でした。しかしながら、歴史の教科書ではその経済に関する資料や記述が少なく教科書だけではどうしても臨場感に欠けるので、歴史の教科書を補完できればと思い、戦前の経済指標をグラフ化し紹介します。

19世紀以降の世界の人口推移

 19世紀以降の列国の人口とGDPの推移です。GDPデータはグローニンゲン大学による一人当たりGDPの長期時系列データ「Maddison Project Database (MPD) 2020」を用いています。人口とGDPについてはチャートレース形式の方が国力推移がわかりやすく比較もしやすいかなと思い、Flourishにて作成しました。

1900-1940年のGDP推移

戦前の小作争議件数と労働争議件数(1917-1941)

 「小作争議件数」は農林省農務局「昭和九年小作年報」「昭和十二年小作年報」「昭和十四年小作年報」「昭和十六年小作年報」の記載データから、また「労働争議件数」は総務省「日本長期統計総覧」のデータを引用した帝国書院の公開データと、1917年の数値に関しては二村一夫 著作集を参考に作成しています。労働争議は世界恐慌によって輸出が激減した1930年以降、小作争議は1933年の豊作の翌年に起きた東北大凶作以降激増しています。

戦前の輸出入額と貿易収支の推移(1900-1939)

 日本学術振興会 人文学・社会科学データインフストラクチャー構築推進事業一橋大学経済研究所公開の統計年鑑データを元に作成しています。第一次・第二次欧州大戦(世界大戦)になると貿易黒字になり、戦後は貿易赤字になっていることがわかります。第一次世界大戦中各国は戦費の調達による金の流出を防ぐため金本位制を停止しており、日本も17年から金輸出を禁止していました。大戦後アメリカを皮切りに、ドイツ、イギリス、イタリア、フランスと西欧列国が金本位制を再開しますが、日本は戦後恐慌となり例年の貿易赤字、関東大震災と経済悪化の一途をたどる中で金本位制に戻すことをためらっていましたが、乱高下する為替の安定を求める貿易業界が金解禁を強く要望したため井上準之助が1930年に金解禁を断行します。直前に起きた米国株価の急下降の影響が及ぶ中、さらなる金流出によって再びデフレとなり、翌年犬養内閣が金輸出を再禁止しています。また1937年の貿易赤字は支那事変による生産者耐久財および建設材料などを主にアメリカから大量に輸入したためと思われます。

戦前の為替相場と卸売物価指数の推移(1912-1941)

 戦前の「ドル円為替」は日本銀行金融研究所の「外国為替相場・横浜正金銀行建電信売」を、また「卸売物価指数」は日銀の指数を掲載している経済学者平瀬巳之吉氏の論文を元に作成しています。1931-32年の円高のメカニズム(不況によって円高になったのか、円高が不況に追い打ちをかけたのか)、1935年の物価高の理由がいまいちまだよくわからず調査中です。下は「卸売物価指数」と「貿易収支」で合わせたグラフと「卸売物価指数」「労働者賃金指数」で合わせたグラフです。

戦前の卸売物価指数と貿易収支の推移(1903-1940)

戦前の卸売物価指数と労働者賃金指数の推移(1926-1939)

「民営工場労働賃金指数」は日本銀行金融研究所「歴史統計」の公表データを使用しています。

世界恐慌後の東京失業率と為替の推移(1929-1933)

 失業率の統計は少なく、内務省社会局による「失業状況推定月報」のデータを用いて作成しています。東京の失業率は1932年に最悪になっていることがわかります。

戦前の工業生産額の推移(1919-1940)

 経済産業省「工業統計調査アーカイブス」のデータを用いて作成しています。戦前基幹産業であった紡績工業が世界恐慌の影響で輸出が激減します。そのため、紡績工業生産額の減少幅が1930年に最も大きくなっている一方で、支那事変ノモンハン事件第二次世界大戦と戦争の影響によって機械、金属、化学工業の上昇幅が大きくなっていることがわかります。「戦争すると景気がよくなる」を証明する指標となっています。

世界恐慌前後の株価指数(1921-1933)

 出典は東京株式取引所統計年報(昭和八年)です。1925年は1月に日ソ基本条約、5月に改正普通選挙法ラジオ放送の開始も25年です。恐慌の起点となった20年代ですが、国民革命軍の最高司令官に蒋介石が就任したのが25年、翌年張作霖が北京で大元帥を名乗り、支那では派閥闘争が繰り広げられている束の間となった1926年、27年は株価指数が上昇しています。ただ27年には幣原外相の南京事件不干渉発言から革命軍の排外襲撃事件が相次ぎ、混沌の30年代へと向かいます。

戦前の自殺者数と自殺率の推移(1899-1943)

 警察庁自殺統計を元に作成しています。格差という資本主義の悪い面が強調された時代で、皮肉にも大東亜戦争の端緒となった支那事変勃発の37年頃より自殺率は急減しました。

戦前の歳出に占める軍事費の割合(1912-1945)

 財務省財務総合政策研究所の大蔵省昭和財政史編集室編「昭和財政史第四巻―臨時軍事費―」のデータを元に作成しています。現代の軍事費は1976年三木内閣の時にGNPの1%を超えないとする予算案が閣議決定されて以降、慣例としてGDPの1%前後に抑えられていましたが、22年2月に勃発したロシア―ウクライナ戦争によってようやくGDPの2%(歳出の1割)に上げる議論が認められるようになりました。一方、戦前はリベラルと言われた石橋湛山でさえ歳出の四割を超える軍事費を計上した時も「景気が上昇する」として肯定する時代でした。

戦前・戦中の原油生産量と輸入量の推移(1935-1944)

 戦前の石油に関する統計は「石油統計年報」と日本石油株式会社顧問役室編「石油便覧」などあるものの、現物がなかなか見つからず、以下の数値は「石油便覧」の数値を参照した論文「主要関連工業の推移と将来の展望」から出典しています。日本がアメリカとの戦争を最終的に決断したのが41年8月アメリカが行った石油輸出禁止だったと言っても過言でありません。南方資源の確保にフィリピン島を領有するアメリカが黙っていないだろう。しかしドイツの戦況次第では停戦に持ち込めるとの見込みで連合艦隊司令長官山本五十六の奇襲作戦は発案されましたが、その目論見は失敗に終わりました。

関東州・満蒙付属地の人口と朝鮮・台湾の人口推移(1920-1940)

 出典は人口問題研究所が公開している昭和18年の「人口統計総覧」です。満州事変後、関東軍の発案によって満蒙への開拓移民が大量流入し、1935年の満洲の人口密度は5年前の2倍に増加しました。

戦前~戦後にかけての人口ピラミッド(1920-2020)

 出典は総務省統計局「人口推計」調査と全体調査である国勢調査です。支那事変以降21~22歳男性の人口減少が著しくなり、1945年終戦時この世代の男性人口は2人に1人が死亡しました。

▼動画版では1920-2020年までの人口ピラミッドをスライドショー形式で表示しています。

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  1. ピンバック: 太平洋戦争開戦前の「なぜ」とその答え – 萩高STUDIES

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